日々邁進備忘録

色々こじらせたオタクによる、海馬の容量とシステムエラーのために書き連ねるだけの備忘録。

単騎を極めし女

私は大体どこでもひとりで行く。

って言うと、たまに「えっ!?」って言われるじゃないですか。

いやもちろん、私は殆ど、そういう私のことを受け入れてくれる人としかつるまないんだけど。そして大体のそういうタイプの人の交友範囲もそうだと思うんだけど。

謎やで!!!って言われたり、あるいは出かけた先で「えっ…ひ、ひとり…???」みたいな視線を感じることがままあるから、そこについて書いてみよう。

 

で、私はひとりで出かけることが多い。

もちろん友達と遊ぶこともあるし、人と会うことも、人と関わることも好き。

でもそれは、お互いに居心地がいい相手に限っての話。

私にとって、だけじゃない。相手にとっても私がそれなりに居心地良い存在でないと、私は共に過ごすのが難しい。

なんでかって、機嫌や、合う合わないということが、自分について主観的にわかるのは当然だけど、私は大体相手にとって私がどうなのかがわかるから。

感覚だから、「えっ…全くわからんこの人…謎…」っていう場合もある。その場合は、多分相手の立ってる場所が、私が感知できるところじゃないんだと思う。

要するに、「この人とは価値観があうな」とか、「私今機嫌がいいな」っていう主観的な感覚とは別に、相手が私に対してどう思ってるのかがなんとなくわかる。私に対して価値観が合うと思ってくれてるとか、今機嫌が悪いなとか。機嫌悪いのは腹減ってんじゃないかとか。

早い話が、たまに凄く耳が良くて、遠くの音が聞こえる人がいる。それと似たようなものだと思う。

で、私にとって誰かと過ごすことは、自分だけが楽しければ良いってもんじゃない。自分が我慢しまくるのも辛いけど、相手にも我慢なんてして欲しくない。相手にも楽しんでほしい。お互いが快適に楽しめるのが大事だと思う。

 

でも、例え家族でも、他人は他人だ。

だから、お互いに快適に楽しめるってなかなか難しい。

私には私の価値観や好みがあり、相手には相手のそれがある。お互いにそれを尊重し合えるのが一番だ。でもお互い譲れないこともある。

だから私は、大体のところにひとりで行く。

それが一番楽だからだ。自分が快適に過ごすことを一番大事にしたい時は、ひとりで行動する。

誰かと過ごすとなると、相手にとっても快適で楽しいことが、その時間を過ごす必須条件になるから。相手が、そんなこと気にしないでよ、と言ってくれても、それは私の中で譲れない価値観だ。私はそれを整えないと気が済まない。自分にできることはしたい。でも、それは結構気をつかう、疲れる。

だから、ひとりで大体どこでも行く。

 

私は、舞台であれ小説であれアニメであれゲームであれ映画であれ音楽であれ、何かを鑑賞するのが好きだ。

思うまま作品の世界観に浸りたい。

でも、先述したように、誰かと過ごす場合、相手も快適に楽しく過ごしてほしいタイプなので、一緒に鑑賞しようと思うと、しんどいことがある。

例えば友達と映画を観に行くとして。

私が素晴らしい映画だと思っても、隣にいる友達も必ずしもそうだとは限らない。

さすがに映画を観てる間は、私だって隣の友人がどう感じてるのかはわからない。感性のセンサーは映画に向いているから。

でも、隣の友人が楽しめているかも、とても気になる。

友人と過ごす時間の一環として映画を選択している。つまり私にとっては、私も友人もその映画を快適に楽しまないとならない。

なので、私は映画に集中しきれなくなる。

もちろん、一致して同じ映画が観たい時は別だ。その時は問題なく集中する。が、私が観たいと言ったものだったり、あるいは、軽い流れで観に行くような時、私は集中が出来なくなるタイプだ。

だから、基本的に映画も舞台もひとりで観に行く。たまに、同じものを観たいと思ってくれる人とは観に行く。その時は最初からその前提条件がちゃんと揃ってるのがわかってるから、心置きなく堪能するし、とても楽しめる。

終わってから語り合うのも好きだ。

でもそこでまた問題が出てくる。

相手にも快適に楽しんでもらいたい病だ。

観たいと思ったものが一致した映画を観てる間は、私も友人も、それぞれ主観的に楽しめる。

でも終わって、例えばカフェで感想を語り合おうとすると、何から語ればいいのかわからなくなる。

そう、私は、まず、相手に快適に楽しんでもらいたいからだ。自分よりもそれが先に出てくる。

だから、観終わったばかりの映画の話なんか、正直どうしたらいいかわからない。だってそれを、私は主観で観ている。相手もそうだ。お互い主観で観てるから、多分感動したところや着目点も違うし、解釈も違うだろう。さすがに、観終わったばかりで自分の解釈をまとめてる時に、相手の主観がどうだったかについての予測は立てられない。観て数日してからなら「この子ならこのシーンが好きだろうな」と思うけど。

でも、それで良いことはわかっている。大事なのはお互いにそれを否定せず、あなたはそう思ったのね、私はこう思ったわ、って語り合うことなのだ。わかっている。

……が、私は「自分ばかり話していないか」「相手にとって不快なことを喋っていないか」などを酷く気にする。相手が私と過ごす時間を楽しんでくれているかを非常に気にする。

それを達成するには、相手の話を聞き、相手の主観を理解し、また理解を示し、共感をする、それが一番だと私は思う。

でも私も同じように話がしたいのだ。すりゃ良いだけなんだけど、私は身近に、「相手に理解や共感を示したふりをして話を自分が持っていって独壇場を作り上げる」人がずっといたから、自分もそれをしてしまうんじゃないかと怖くなる。だから難しい。

そんなの私の都合だ。そうなのだ。だからこそ、相手に、私のそんなめんどくさい都合に付き合わせたくない。

だから、私は大体の場所にひとりで行く。

自分が作品の世界に浸るという意味でも、一緒に過ごす相手がいる時は快適に楽しんでもらいたいという意味でも、自分のめんどくさい都合に大切な友人を突き合わせたくないという意味でも、それが今の私のベストってことだ。

 

で、お察しの人もいるかもしれないけど、そんな感じの価値観だから、外に出る時はなかなか苦労する。

いや正直、街歩いてて不快になることなんかいくらでもある。細かいこと言えば人が乗ってくるのがわかってる電車で入口らへんで突っ立ってくっちゃべってる奴とか嫌だもん。中程へお進みください。

他人の会話でさえ、キモいとかウザいとか、中傷的だったり批判的な言葉が聞こえてくるとげんなりするし、申し訳ないが子供の声も苦手だ。子供が嫌いでも悪いのでもない。子供を無視する親や無神経な親が子供を連れているのが嫌なのだ。そういう親に連れられた子供が出す声って、叫び声でも泣き声でもこそこそ声でも、一定の「構って欲しい」何かが滲み出ている。私はそれを感知してしまうし、その子供の気持ちがわかるので辛い。だから子供の声は苦手だ。

そんな感じで、割と神経質な人間なので、外に出る時は常になんらかの防護策を張っている。

例えば音楽を聞く。自転車に乗る時や店員さんと話すときなどは聞かないけど、それ以外は基本聞いてる。好きな音楽があることによって、そっちに意識を傾けられるので、耳に入る不快なものからは身を守れる。

視界…はどうしようもないけど、乗り物の中なら寝るか、空想にふけるか、考え事をするか、本やインターネットを活用するか。幸い私は空想や考え事でぼけーーーっと出来るタイプなので、そんな感じで視覚から入る不快なものから身を守っている。もちろん安全や配慮は常に気を配っているけど。

あと、出かける曜日や時間に気をつける。調整が効く仕事というのもあって、出かける時は平日の昼間だけにしている。

早い話が、私は多分、多くのことに敏感なんだろう。そして、敏感であることも、あるいは鈍感であることも、悪いことじゃない。

本当はそこまで対処せず普通に街を歩ければ良いんだけど、色んな人や価値観があるから、それは難しい。鈍感な人が悪いわけじゃないし、排除するなんて無理だし、自分の快適のためにそんなことはしたくない。なら、自分がある程度快適に過ごせるように工夫をすれば良いと、私は思う。

 

そんなタイプなので、私は推しの現場ではファンコミュニティに所属したりしない。無理に関わることもしない。というか、能動的に、積極的に自分から関わったことがない。それは「推しは私のもの!」タイプの同担拒否ってことじゃなく、舞台に集中することを最優先に取捨選択したらそうなったってだけ。

んだけど、そこで苦しむ人多いなあと思う。それは私の推し界隈に限らず、色んなジャンルで。

わかる。語り合いたいよね。同じものを好きで語れる相手欲しいよね。それはわかる。

……んだけど、そこに重きを置いてる人が多いなって。いや、それはいい。そこに重きを置くタイプの人なら、それも楽しみ方の一つだ。何の問題もない。

ん???って思うのは、「作品を心ゆくまで楽しむこと」と「対人関係を作ること」の比重が上手く取れていない人。つまり、交流にがんじがらめになってしまい思うように鑑賞が出来なくなってしまっている人だ。

無理して交流の輪に加わっている人のことは、なんとなく、見ればわかる。無理があるから。

交流に重きを置くタイプの人は、作品>交流のタイプの(交流の比重が、出来たら嬉しいな!程度の)人より、交流にやや積極的だ。

で、作品>交流の人は、大体ちょっとそれに圧倒される。でも、交流に重きを置くタイプの人は、それに気付かない。作品>交流の人は、もっと深い話したいんだけどな…と負担を感じる。

…っていうの、よくあると思う。昔は私もあった。めんどくさすぎて途中から距離置くようになったけど。

そんなことせずに、世界を堪能すれば良いのになあ。もしくは、もっと同じような感覚の人を探せば良いのに。

そう思う。んだけど、作品>交流の人は、恐らくだけど、距離を置くとか、突然相手から離れるってことに、物凄く罪を感じるんだよね。私もそうだった。

それに、交流出来なくなるのも辛いし。それもわかる。

でも、交流によって、作品を心ゆくまで堪能することに負担が出てくるなあと思ったら、思い切って交流をやめてみていいと思う。

だって、席が連番かどうかよりも、生きている目の前の作品の方が大事じゃない?

 

そもそも私は女子中学生によくある、トイレ一緒に行こうってやつ、ああいうのが、好きじゃないしめんどくさい。だから、交流もしたいけど何より作品が大事、って自分の性質に気付いた時、割と悩まずに「じゃあ交流はやめよう」って決められた。

女子中学生タイプが悪いんじゃない。単純に、私は住む世界が違う。それだけのことだ。

違う世界に無理して住んでめんどくさい思いしたことも沢山あるしね。だから移住した。

で、今は、ぜーんぶひとり。超楽。

語りたいなあとは思うし、お母さんに話すことはあるけど、話し相手は基本自分だ。私は空想や考え事が好きだから、いつでも頭の中に、必要なシチュエーションは作り出せる。

例えば、同じ目線の友達。例えば、インタビュアー。なんでも頭の中に作り出せるし、そこで必要な会話や議論はできる。

 

…なんてことは難しい人が多いのかもしれないけど。

ただまあ、趣味の世界で人間関係がマイナス要因になるんだったら、それはやめてみることも必要だと思う。

単騎極めるの、楽しいですぜ。

行きたい回数、入りたい席で、欲しい分のグッズだけを買って、前後に食事するとか真っ直ぐ帰るとかも全部自分で決められる。ちょっと今お金ないから家でご飯食べよう!も出来る。いらないグッズまでお金出して買う必要もない。

人付き合いが面倒だなと思ったら、是非単騎してみて欲しい。どうせ舞台や映画が始まってしまえば、ひとりで楽しむのだから。

 

そんなわけで、単騎を極めし女が単騎を極めている理由でした。

ひとりで行くのが寂しくないし、視線感じるのも勝手にしてくれって感じだし、楽なんだよって話。