否定への恐怖
突然ですが、私はよく否定をされてきました。
「またまたあ。言うて、そんなに酷いことは言われてないでしょ?」
って思った人。
それが、否定なんです。
って言う話をするやで!!!
何度でも言うけど、私は説明するのが苦手なので、主に体験談のお話でーす。
現在の私はどうやら、
・明るい
・面白い
・フランクで人懐こく人見知りをしない
・優しい
・服装やメイクなどが個性的
・堂々と個性的に生活が出来る
・なんでも自分で出来る
…みたいに思われているらしい。凄いね、これから出会うかもしれない方に対してめちゃくちゃ自分で自分のハードルを上げていくスタイル!
しかしこれは、ここ5年くらいでよく言われることを総括しただけのことだ。自分では、よく言われるから「私ってそう見えるんだー」と思う程度。
でも、「そう見えるんだ」というのは、あくまで他人からの評価にすぎない。
なら、私が自分自身をどう評価しているかというと、下記の通り。
・ネガティブ
・喋り下手
・人見知り
・内面がトゲトゲしい
・他人からの評価を気にする
・堕落している
驚くほど正反対なんですよ。その時のメンタルによっても自己評価が変わるんだけど、それはまた別のお話ということでここでは触れません。
で、周りからの評価と自己評価に相当な齟齬があるわけですよね。認識が、本人かそうじゃないかで、180度違うわけです。
そうすると、こんな会話がよくあります。
「○○さん面白いね。子供の頃から人見知りしなかったんでしょ?」
「いやいや、私人見知りなんですよ。子供の頃から、今も」
「そんなわけないでしょー絶対人見知りないって!○○さんが人見知りならほとんどの人が人見知りだよ」
これ私からすると、物凄くもどかしい会話。
何の権限があって否定をしていらっしゃるので???と思う。
もちろん、相手は褒め言葉で言ってるんだろうことも理解はしている。でももっと言い方あるでしょ。否定をするなよ、やめてくれよ!それは想像上の私であって現実の私は目の前だよ!と感じる。
無意識の否定って超怖い。そういうお話。
そもそも、違う人間である以上主観が違うから、同じ相手に対するものであっても評価が変わるのは、普通のこと。
カレーが好きな人もいれば、苦手だという人もいる。それと同じ話である。
なので、自分と周りとの間で、私に対する評価が違うのはそりゃ当然だ。
そこについて思想統制をしたいんじゃない。
私が言いたいのは、そういった、感じ方や価値観によって個人差がある認識を、尊重しあおうよ、ということ。
先ほどの会話を例にしよう。
私は、自分が人見知りだと思っている。
Aさんは、そうは思わない。私は人見知りではないと思っている。
その認識の差があるのは構わないし、認識の差そのものは私は受け入れている。認識が異なるということを言葉にすることも、なんら問題ないと思う。
でも、言い方に適切と不適切はあると思う。
「絶対人見知りないって!」
この「絶対」って、あなたは私の何を知っていて言い切れるのか?あなたは私じゃないのに?
だから、その言い方が適切じゃない、と私は思う。
なんでかって、「あなたは絶対に人見知りではない」という言い切りになると、私が人見知りではないというAさんの感じ方は尊重されているけど、私は人見知りだという私の感じ方は尊重されていないからだ。
私本人を前にして、私が人見知りかどうかの話をしているのだから、それは私の感じ方も尊重されるべきではないだろうか。
それと殆ど同じことで、「個人の趣味嗜好を否定するような物言いはやめよう」ということも、一緒に主張したい。
こんな例だ。
少し前に、職場で上司がこんなことを言っていた。
「アイドルだの歌手だのにハマったりライブ行ったり、追っかけ?とかする意味がわからない」
目の前には、私(生まれながらのオタクで追っかけ歴もそこそこあり現推しは俳優さん)と友人(オタクじゃないけどコンサートには年2回ほど)。
正直、「意味わからない」と思ってる人同士の、そういう人だけのコミュニティでそういう話をするなら、構わないと思う。
頭の中で何を考えるかは自由だし、その部分に関して同じ価値観の人に限っているならば、私たちに実害はないからだ。
でもよりにもよって「意味わからない」当事者の前でそれを言うということは、「お前らのやってることは意味がわからない」と正面切って喧嘩売られてるようなものだ。そういう否定なのだ。
(因みに上司の名誉のために言っておくと、否定したかったというよりは、恐らく本当にわからなくて、なんで?と聞きたかったのだと思う。そうだとしても否定に聞こえない聞き方をすべきではなかろうか)
どちらも、「人それぞれ」で良い部分なのだから、「あなたはそうなんだね」で良いじゃないか。
あなたはそうなんだね、自分はこうですよ。それだけで尊重し合っているし、それでおしまいで良いことのはずだ。
そして、これらの主張は、全てのことにあてはまる。
趣味、娯楽、嗜好、個性、感じ方や考え方、価値観、容姿。
法律に触れないなら、倫理的にアウトじゃないなら、あとは誰が何を好きだろうがどんな意見を持とうが、そんなのは個人の自由だ。
そしてその、個人の自由、で良い範囲のことならば、互いに尊重し合わなければならない。本人の主義や主張、好みを否定する権利は誰にもないのだ。
それがマジョリティだから尊重されるとか、マイノリティだから軽視されて良いとか、そんなことがあっていいはずがない。
本人の感じ方や好きなものなど、犯罪性がないのなら、「あなたはそうなんだね」で良いじゃないか。
「あなたは○○なんだね」に続いて、もし、本当に相手のことがわからないのならば、こう聞けばいい。
「自分は××だから、○○なのがわからないんだけど、それってどういうことなの?」
大事なのは、お互いにお互いを尊重すること。つまりは、一旦受け入れることだ。相手を受け入れることは尊重に繋がるし、尊重すれば、相手だって否定されたとは思わない。
尊重された上でわからないことを聞かれるのならば、「この人にはこれまでそういう引き出しがなかったんだな」で済む。どちらも傷つかずに、有意義な対話が出来るだろう。
それでも傷つくことはあると思うけど、なるべく避けられるようにした方が良いんじゃないだろうか。
そのように、お互いに、みんなが努力すれば良いんじゃないだろうか。
さて、私は色々な否定をされてきた。
顔や体型といった容姿の面も、好きなアーティストや休日の過ごし方といった趣味嗜好の面も、ファッションなどの個性の面も、体質や性格や考え方や感じ方や価値観といった個人的な面も。否定されてないところは殆どないような気がする。
「そんなのが好きなんておかしい」とかそういうことや、もっと、とても酷いことも沢山言われてきた。
どこを取っても、私がいわゆる「普通」、つまり「世間一般の多数派」じゃなかったからなんだろう。
でも私は私が良いと思うものが好きなだけだし、生まれ持った特質に従って生きているだけだ。
私が少数派の面を沢山持っているということが、誰に迷惑をかけたのだろうか?
何を好きだろうが、個人の自由だ。どんな特質を生まれ持っていようと、個人差があるのは当然のことだ。
でも、否定を重ねられることで、私は自分が異常なのだと思うようになった。
おかしい私には誰かに何かを言う権利などない。おかしい私が悪い。
という毒された考えと、
多少ズレてようがそれが何の迷惑になったんだ?私の自由であるはずだし、傷つけられなけばならないことじゃないはずだ。
という元からの正義感の狭間で、長年板挟みになっていた。板挟みになりながら、好きなものや自己を諦めるのはどうしても嫌で、傷つきながら貫いてきた。
身内に非常にデリカシーに欠けた人がいるせいもあったのだと思う。何気なく人を串刺しにする人なのだ。多分そのつもりがあってやってるわけではない。だからこそ厄介なんだけど。
そんなわけで、私は高校に入るくらいまでは常に自己を否定され続けてきたし、その後もずっとその恐怖に怯えていた。そして自分で自分を否定するという後遺症を背負うことになった。また、相手を否定することになってしまうのではないかと必要以上に怯え、物を言えなくなった。これらをまとめて、「否定への恐怖」と私は呼ぶ。
私は今、それらと戦っている。
この否定への恐怖は、なくさなきゃいけないと思うもののひとつだ。
誰だって、漫画なりゲームなりアイドルなりバンドなり俳優なり、何を好きになったって良い。好きなものを好きなように応援すれば良い。数式だろうが語学だろうがスポーツだろうが絵画だろうが演奏だろうが、好きや得意に従って伸ばせば良い。好きな色のアイシャドウやリップを塗ればいいし、好きなデザインの服を着ておしゃれをすれば良い。
それを否定されて恐怖するなんてなくさなきゃいけない。そんなことで傷つかなきゃならないはずがない。
それが尊重されるべきなのだ。
そういう時代が来てるのだから。
平成も終わるしな。